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Minato Unesco Association

江戸の庶民文化を語る

2015年度第3回国際理解講演会

日時:2016年2月1日(月)18:30~20:30
会場:港区立生涯学習センター305号室

江戸の庶民文化を語る

講師:竹内誠(たけうちまこと)氏
江戸東京博物館館長

東京都江戸東京博物館は、江戸東京の歴史と文化をふりかえり、未来の都市と生活を考える場として、平成5年(1993)3月28日に開館されました。JR両国駅西口から徒歩3分、国技館の隣に位置しています。
竹内先生は開館10年前から、資料収集、展示の準備から、30数年にわたって、関わってこられました。
講師プロフィール
昭和8年(1933)東京生まれ。
東京都江戸東京博物館館長。東京学芸大学名誉教授。徳川林政史研究所所長。
専攻は、江戸文化史・近世都市史。文学博士。
著書:『江戸社会史の研究』(弘文堂)、『元禄人間模様』(角川書店)など多数。

NHKの大河ドラマ、金曜時代劇などの時代考証も担当されました。
東京日本橋生まれのチャキチャキの江戸っ子であられ、子供の頃、浅草までの交通機関はポンポン蒸気の船だったと懐かしそうに話されました。
昭和61年(1986)から現在まで、週1回、両国の相撲教習所において、力士を対象に、相撲の歴史、特に江戸文化としての相撲や、礼儀作法などを教えておられます。また、現在、浅草寺の信徒総代も務めておられます。

ご講演内容の概要
江戸の庶民文化の代表は、何といっても錦絵(浮世絵)でしょう。その錦絵は絵暦から発達しました。つまり暦という生活に即した文化でした。川柳も庶民の生活や人情の機微を表現した滑稽文学で、江戸で誕生しました。
さらに、洒落本や黄表紙というユーモアあふれる大衆文学も、江戸という都市に生まれました。
江戸の庶民文化は生活文化そのものでした。したがって、これらの文化には、江戸庶民のさまざまな暮らしの知恵が散りばめられています。

Ⅰ江戸の三大娯楽
(1)相撲

不知火土俵入りの図
江戸東京博物館所蔵

江戸時代の人気力士は、谷風梶之助、小野川喜三郎、雷電為右衛門。
現在も、力士はちょん髷を結い、土俵における礼儀作法などを大切に守り、江戸文化の形を継続している唯一の存在だといえる。
力水や力紙で身を清め、土俵での礼、静→動→静の心構えの切り替え、(戦う前の静、本番では力一杯戦い、戦い終わった後は、敗者への思いやり、土俵に礼をしてから花道を去るという流れ)を大切にする。
力士の正式の服装は紋付羽織袴で、髪型も守られている。まさに伝統的な武士道を継承しているのである。
江戸時代から、興行として木戸銭を支払い、それが力士の生計となるという形、娯楽としてのプロの相撲になった。
江戸相撲番付の形は、宝暦7年(1757)、横2枚番付から、縦1枚番付に変わった。縦1枚番付の形になったことから、相撲ばかりでなく、いろいろなものの「見立て番付」を作ることが広がった。東西の山くらべ、川くらべ、酒くらべなど、数千以上の見立て番付が作られ、売られていた。見立て番付は、比較と序列を楽しむ知的文化であった。

(2)歌舞伎
江戸の庶民にたいへん人気があり、人気役者の錦絵はよく売れた。

(3)吉原(廓)
光と陰の世界。陰は、働いている女性。若くして身売りされてきた人たちは、苦労し、多くは22歳~23歳頃に労咳(ろうがい・結核)で亡くなった。身寄りのない遊女たちは投げ込み寺といわれる浄閑寺に葬られた。
光は、流行の発信元としての華々しい遊女や花魁の姿。(江戸東京博物館では、光の部分として、歌舞伎の「助六由縁江戸桜」の三浦屋の場面で、遊女の花魁揚巻の姿を展示している。展示するに当たっては、先代市川団十郎が監修した。)
現在、流行っているファッションも、江戸時代の文化から始まっていたといえる。
廓では遊女には自由がなかった。しかし、火事になった場合、再建までの1年は市中に分散して仮宅営業がなされた。この時期は、割安で、しきたりも軽くなり、遊女たちも解放気分で人間性が出て、自由な恋も生まれたという。
吉原は男性だけのものでなく、地方から出かけてきた女性たちも、ここで行われる花魁道中などのイベントを見物したりしていた。

Ⅱ行動文化
(1)名所めぐりと名物食べ歩き

東海道五拾三次の内 日本橋
江戸東京博物館所蔵

『酒井伴四郎日記』は、幕末の頃、紀州藩の下級武士である酒井が参勤交代によって江戸・赤坂で暮らしている時に体験した江戸の名所めぐりや美味しい名物を食べたことを記した日記である。
『世事見聞録』(著者未詳)には、江戸後期における、長屋に暮らす女房連中のおしゃべりの様子や、芝居見物、寺社などの信仰スポット巡り、茶屋での名物料理や景色を楽しむ様子が綴られている。
これらの記録から、当時のお伊勢参りや江戸の物見遊山、温泉参りも武士のみならず庶民、女房連中も行動して文化を楽しんだ様子がわかる。

(2)両国の花火
花火は5月28日の川開きから8月28日の川仕舞い迄の三か月間、スポンサーがいれば毎日でも、打ち上げられた。
この3か月間は幕府から、両国の水茶屋の夜間営業が許された。江戸っ子は夏の花火を愛し、楽しんでいた。
「一両が花火間もなき光哉」、「千人が手を欄干や橋すずみ」、「この人数舟なればこそ涼哉」大森貝塚の発見で有名なアメリカ人エドワード・モースが書いた『日本その日その日』には、「河を開くお祭り」(両国の花火)に行った時の感想を、「大混雑の中でさえ、船頭たちは『アリガトウ』『ゴメンナサイ』とやり取りしている様子から、優雅と温厚の教訓を学んだ。」と記している。明治10年に来日し、通算2年半滞在したが、日本を愛した彼は、「最初は野蛮な国に来たと思ったが、譲り合い・思いやりの精神に関心をもった」という。
日本人が当たり前と思って記録に残していない日本文化について、モースはアメリカと比較しながら文章に残した。
(彼は日本で初めて考古学の科学的研究の基礎を教えてくれた人物である。)
文化を考えるとき、主観的だけでなく、外からの目線で見て、比較することが大切であることがわかる。

(3)江戸の旅
すでに旅行案内業者が存在した。関東中心にした「東講」、大坂中心にした「浪花講」など。
これから旅をするという人に、入会金をとって、割り印のついた鑑札を持たせるシステム。旅人は行く先の宿場の定宿に着いて、半券を渡すだけでよい。身元のはっきりした人のみが利用するので、たとえ、一人旅でも安心して宿泊できた。業者は宿と旅人から手数料をとる。定宿は現在の指定旅館にあたる。貴重品を宿の主人に預けても一点の間違いもないと信用大であった。

Ⅲ情報文化
(1)広告宣伝時代の到来

ネタをもらって情報のほしい人に売るという文化はすでに、庶民に広まっていた。
現在のコピーライターともいえる山東京伝(江戸後期の戯作者、浮世絵師)の『ひろう神』は宣伝コピーを纏めたものである。

(2)式亭三馬の宣伝力
当時は、人気のある三馬でさえも、作家業のみでは生活が苦しかった。彼の書いた『浮世風呂』の中に、自家製品の「江戸の水」を桐箱に入れ、ギヤマンの瓶(ガラス、当時は高価な品)に詰めて、「おしろいのはげぬ薬江戸の水」、後には、「おしろいのよくのる薬江戸の水」というキャッチコピーで、上等なイメージで売り出した様子が書かれている。

(3)識字率の高さ
『ニコライの見た幕末日本』はロシア人ニコライが書いたもの。その中に、「読み書きできて本を読む人の数はヨーロッパ西部諸国のどの国にも引けを取らない。日本の本は、最も幼稚な本でさえ、半分は漢字で書かれているのに、それでもなおかつ、そうなのである。」と驚いている。
貸本屋は、江戸に700軒、大坂に300軒存在し、本は貸本屋を相手に出版された。庶民の男性も女性も、貸本屋から本を借りて読んだ。いかに識字率が高かったかがうかがえる。

Ⅳ生活文化
(1)錦絵(多色摺りの版画)

四世松本幸四郎の肴屋五郎兵衛
江戸東京博物館所蔵

錦絵は暦から始まった。
江戸時代、日めくり暦はなく、1年の月は、30日は大、29日は小として分けられ、年間の暦を1枚の紙に刷られていた。
当時は支払いがみそかだったので、月の大小の区別を暦にしたものが生活に大切であった。大小暦が次第に発展して、明和2年(1765)、錦絵が誕生した。
大小暦→大小絵暦→判じ絵暦→錦絵役者絵、相撲絵、美人画有名な錦絵である江戸三幅対には、三大娯楽である歌舞伎の団十郎、吉原遊女の花扇、相撲の谷風が描かれている。

(2)川柳
明和2年(1765)柄井川柳が、人情の機微を表現した『誹風柳多留』を刊行した。
教養の一つとして大名も川柳を詠むことが必要とされた。

(3)黄表紙
挿絵入りであり、庶民に広く読まれた。発行部数は1万数千部と思われる。
ベストセラー黄表紙として、*恋川春町作の『金々先生栄花夢』(1775年)。地方から江戸に出てきた若者が、金持ちの家の養子になり、お金に翻弄される生活が描かれている。目が覚めた時、故郷の良さを自覚したというお話。
*唐来参和作『莫切白根金生木』(1785年)。≪きるなのねからかねのなるき≫は回文になっている。話の内容は、大金持ちが貧乏人になりたがる様子を描いている。何をしても収入につながり、最後はお金(千両箱、小説では万両箱)にスペースを取られ、寝る場所さえなくなった。という夢のような話。
黄表紙は高度なユーモアと洒落に溢れた、大人の漫画である。
貸本屋を通してかなりの読者数があったことが推測できる。

質疑応答

Q1 識字率について 男女の差はあるのか?
A 残存する資料からは男女の差はわからない。村の名主を選ぶには記名選挙が行われた。男性については、これを元にして、本人が書いた名前か、書記の手によって書かれた名前かによって、識字率を判断している。平均して、本人の書いたものが70%という高い率であった。女性に関しては資料がない。
寺子屋は民間のものであり、地域や自分たちの必要に応じて、男女共学で同じ教室の中で学問を受けていた。
大工さんも昼の休みに本を読んでいたという記録もある。

Q2 庶民の豊かさについて
A 江戸という都市には、参勤交代の制度によって富がもたらされた。藩は約270あった。国もとでは農民たちが年貢を納め、そのお金の半分が一極集中の江戸で使われた。江戸には、元気に働ける人には仕事があったが、働けない弱者には、福祉という概念がないため、大変であった。
現代の目で歴史を振り返ってみると、文明が進めば進むほど人間を幸せにしてきたと言えると思うが、心は貧しくなっている面もあると言える。

江戸の庶民文化に対する深い愛に満ちた、ユーモア溢れる、歯切れのいい先生のお話に、参加者の皆さんも酔いしれたようでした。会場には、江戸が息づいているように感じられました。
参加者にも大変好評であり、ぜひ、江戸の文化の講演をまた開催して欲しいという声が多く寄せられました。